

西暦 | 月日・季節 | 年齢 | 略 歴 | 備 考 |
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1871 | 3月10日 | 明治4年 新暦換算4月29日父鷲山養斎(漢方医)母みせの次女として、静岡県小笠郡土方村(現大東町)に生まれる。 | ||
1876 | 5歳 | 嶺向小学校(土方小学校の前身)に入学。 1884年13歳で、小学校を卒業 |
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1889 | 18歳 | 女子学生を受け入れていた済生学舎に入学 | 済生学舎は学歴、学資その他の事情で大学へ行けない人たちを収容し、開業試験への受験勉強を指導するところであった。 | |
1890 | 19歳 | 医術開業試験の前期試験に合格 | 1884年1月医師法の改正が行われ、医術開業試験は国家試験となる。前期試験は物理・化学・解剖・生理・病理・内外科学・薬剤学で、後期試験は臨床を主にしたもの。前期試験に受からないと後期試験の受験資格はなかった。 | |
1892 | 21歳 | 後期試験に合格。順天堂病院へ実地見学に通い、臨床の経験を積む。 | ||
1893 | 土方村に帰る(父の手助け) | |||
1895 | 6月 | 24歳 | ドイツへの留学を志し、再び上京。 本郷元町の東京至誠学院にてドイツ語を学ぶ。 |
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9月 | 本郷駒込に開業し、傍ら人間形成のために跡見女学校に通う。 | 彌生は小学校を卒業のみでいきなり済生学舎に入ってしまったため、当時の女学校には通学の経験がなかった。 | ||
10月 | 東京至誠学院院長の吉岡荒太と結婚 | 荒太は佐賀県東松浦郡入野村の出身 | ||
1897 | 秋 | 26歳 | 住居を麹町区飯田町に移し、東京至誠医院を開業 | |
1903 | 学校は、牛込区河田町の獣医学校跡に移される。 | |||
1905 | 11月 | 「女医界」を創刊 | 現在は同窓会誌となっている。 | |
1907 | 東京女医学校校長に就任 | |||
1909 | 開業試験に開校以来初の合格者を出し、最初の卒業生を出す(竹内茂代)。 | 1914年医術開業試験が廃止。医学専門学校の卒業生のみ医師試験が受けられることとなる。 | ||
1910 | 同窓会として交友会発足。 会員数は17名 |
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1912 | 41歳 | 文部省より専門学校設立の許可を得、東京女医学校を東京女子医学専門学校に改める。 | ||
1916 | 11月 | 東京女子医学専門学校認可後、第1回卒業生を世に送る。 | 文部省の指定学校になれば無試験で医師になれるが、東京女子医学専門学校の卒業生は、政府の開業試験を受けなければ、医師になることはできなかった。 | |
1920 | 3月 | 文部省より東京女子医学専門学校は無試験検定の資格を与えられる。開業試験を受けずに医師の免許がとれるようになる。 | 女子だけの医学教育機関として正式に認められる。 | |
日本女医会会長に就任 | ||||
1921 | 文部省生活改善講習会講師となる。ドイツよりプロイセン赤十字第二等第三等章を授与 | |||
1922 | 7月 | 荒太逝去(享年55歳) | ||
1923 | 12月 | 校友会を「至誠会」・病院を「至誠会病院」とする。 | ||
1924 | 1月 | 53歳 | 至誠会会長となり、至誠会病院長に就任。 勲六等瑞宝章を授与 |
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1926 | 5月3日 | 至誠会は社団法人至誠会として認可される。 | ||
1928 | 7月 | 57歳 | 汎太平洋婦人会議(ホノルル)に日本代表として出席。大礼記念章を授与 | |
1930 | 2月 | 東京女子医学専門学校附属産婆看護婦養成所を設立し、所長に就任。初の医学博士を出す(西村庚子)。 | ||
1933 | 文部省社会教育調査委員会委員に就任。 教育功労賞を受賞 |
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1935 | 日本赤十字社特別社員となり、有功章を受賞 | |||
1937 | 66歳 | 女性として初の内閣教育審議会委員となる。 | ||
1938 | 内閣より中央社会事業委員会の委員を拝受 | |||
1939 | 5月 | 文部省・厚生省の嘱託として欧米諸国の医学教育および母子保護事業の視察のため洋行 | ||
10月 | 帰国 | |||
11月 | 東京地方裁判所の人事調停委員、商工省の織物単純化委員会の委員 | |||
12月 | 内閣より物資利用委員会の委員とされる。 | |||
1940 | 69歳 | 国民精神総動員理事、中央社会事業委員会委員 | ||
10月 | 教育功労者として文部大臣より表彰 | |||
11月 | 五等瑞宝章を授与 | |||
1946 | 日本医師会参与。厚生省顧問に就任 | |||
1947 | 4月15日 | 76歳 | 教職および公職追放 | |
6月 | 東京女子医科大学予科設置の認可 | |||
1950 | 3月 | 文部省より大学設置の正式認可 | ||
1951 | 80歳 | 教職および公職追放解除 | ||
1952 | 81歳 | 東京女子医科大学学頭に就任 | ||
1958 | 4月 | 大学院認可 | ||
1959 | 5月22日 | 彌生逝去(享年88歳)。 正五位勲二等瑞宝章を追贈 |
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この間、大日本実業婦人会、東京女子教育家懇談会、東京盲人教育会、女子青年団の前身である処女会、生活改善中央会、内務省主催児童衛生展覧会、愛国婦人会、大日本婦人教育会、少年保護婦人協会、大日本書道作振会、牛込区婦人会、東京府産婆会、東京聯合婦人会、大日本聯合女子青年団、海外婦人協会、婦人同志の会、社会教育会などの要職につき、積極的に社会活動に参加した。 |
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